もちろん自分が購読しているわけではありませんが、今朝の朝日小学生新聞の一面記事は「ファミコン きょう30年」と題したニンテンドー ファミリーコンピュータ発売30周年を伝える記事でした。
もし朝日小学生新聞を朝見なければ、今日がそんな歴史的な日だとは気付きもせず過ごしたことでしょう。あれから30年も経ったんだという感慨深さと、30年でのゲームの進化を思い出しつつ、30年前を振り返って見たいと思います。
ファミコンは、正式名称「ファミリーコンピュータ」として、別売されるROMカセットを入れ替えることで様々な種類のゲームが楽しめるという画期的な製品として1983年7月15日に発売されました。ちょうど今から30年前のことです。
ファミリーコンピュータはその後大ブレークし、スマートフォンがスマホと略されてメディアに登場するのと同じ理屈でファミコンと略され、据え置きゲーム機の代名詞として長く君臨しました。皆さんの近所にも”ファミコンショップ”のように単なるゲーム屋さんなのにファミコンという固有名詞を名乗っていたお店、ありましたよね。後に任天堂自身がファミコンという名称を使い出したので今でこそファミリーコンピュータはファミコンですが、平気で「セガのファミコン」なんて言葉が普通に通用してました。そうそう、雑誌やウェブサイトで有名なファミ通は、その昔はファミコン通信という名前でしたよ。
当時の家庭用ゲーム機といえば、あらかじめ内蔵されているROMの中からプレイするゲームを選択して遊ぶものというのが常識で、カセットを交換することで、パソコンゲームと同様全く別のゲーム機のようになるファミリーコンピュータは夢のような存在でした。
当時既にパソコンは個人が持てるものとして販売されていました。今でこそビジネスには欠かせない存在ですが、当時はゲームをするためにパソコンを買う人も大勢いました。ソフトを入れ替えるだけで色んなゲームができるのがパソコンゲームならではの大きな特徴でしたが、同じことがファミコンでできるようになったのです。
ちなみにパソコンの市販ゲームは当時カセットテープで販売されていました。データが音声信号としてカセットテープに記録されていたのです。データのビットレートとしては非常に低速でしたので、ゲームを読み込むだけで5分以上かかることもザラでした。ところが、カセットテープというのはデッキで再生するたびにこすれて劣化するため何度も読み込みを繰り返すとそのうちエラーで読み取れなくなることも稀にありました。そもそも音声信号ですからカセットテープを別のカセットテープにダビングしてしまえば、あっという間にゲームのコピーが完成します。当時は「オリジナルは残してダビングしたテープを読み込んでゲームをプレイする」というのが半ば常識のように行われていました。いわゆるバックアップ起動の走りみたいなもんです。暗号化もされていない生データが簡単にコピーできた時代でしたね。もし当時インターネットが存在していたら、そんな風に簡単にコピーされたゲームが簡単に流通してたのではないでしょうか。
話をファミコンに戻しましょう。
私も御多分に洩れず親にゲームをねだり、任天堂が初めて発売したオレンジの筐体の「ブロック崩し」というゲーム機を買ってもらい毎日遊んでました。ブロック崩しの、今思えばステージが選べる程度のゲーム内容でも毎日プレイするほどのめり込んでました。そんな中で登場したファミコン、カセット入れ替えるだけで全く別のゲームがプレイできることにかなり憧れました。
我が家に「ブロック崩し」があったので任天堂がゲーム機を発売したと聞いてすんなりとその事実を受け入れましたが、世間一般には任天堂という会社はトランプを作っている会社で、そんなマイナーな会社がファミリーコンピュータというゲーム機を発売したという印象だったと思います。それくらい、当時任天堂という会社はメジャーではありませんでした。今の中高生には想像がつかない感覚だと思います。
そんな私がファミコンを手にいれたのは、中学3年の頃だったと記憶しています。
当時のテレビには、今のテレビのようにアナログコンポジット入力(ビデオ入力、つまり黄色い映像入力端子)は無くて、テレビで使っていない2チャンネルのVHF帯域にテレビと同じ変調をして映し出す方式でした。つまり、ファミコンをプレイするにはテレビのチャンネルつまみ(リモコンを押すのではなく、ロータリー方式のつまみをガチャガチャと回すのです)を回して2チャンネルにするのです。
しかし、2チャンネルにも欠点がありました。ボロい共同アンテナのアパートでは隣の部屋へファミコン用に変調した2チャンネルの電波が影響してテレビの写りが悪くなったりしました。よく大学時代に隣人とトラブルになってたことを思い出します。
そう。大学時代もファミコンだったんです。スーパーファミコンが発売されたのは大学に入ってからしばらくしてからのことで、結局大学の4年間で周りにスーパーファミコンを買った友人は数える程しかいませんでした。いつも友人の下宿先に集まって交代交代でファミスタ対戦を朝までやってましたね。
当時のファミコンのコントローラーは、よく接触不良になり動かなくなってました。コントローラーの内部に這わせたケーブルが断線気味で接触不良を起こしてたので、何度も分解しては修理していました。その度にケーブルがちょっとずつ短くなるので、私のファミコンは1Pコントローラーが2Pコントローラーよりやたら短かったのです。
今はすべてコントローラーはワイヤレスなので、そんな修理は必要ないですね。
そうそう、当時のゲームにはセーブという機能がなかったので、プレイする時には何はともあれ最初から、というのが常識でした。初代ドラクエで、画面に表示されたひらがなをメモって次回プレイ時に入力すると前回の続きから始められる「ふっかつのじゅもん」というシステムが出た時には画期的だと喜びました。ふっかつのじゅもん専用ノートを作ってひらがな文字を数十文字近くひたすらメモってました。当時のテレビは解像度が低く、文字が滲んで表示されるので「ぱ」と「ば」の判別がつかずに書き写し間違いが頻発しました。書き写し間違えるとデータが読み取れないので、以前問題なかったころのふっかつのじゅもんを引っ張りだして来てそこからやり直し、なんて悲劇を幾度も繰り返しましたよ。
当時家にカメラがある人はふっかつのじゅもんが表示されたテレビの画面を写真に撮ってたと聞いたことがあります。カメラなら我が家にもありましたが、フィルム代もバカにならないし、最も安い12枚撮りのフィルムを買っても現像プリント代が更に何千円もかかりましたし、もっと言うと現像出したら写真になって返ってくるまでに数日かかっていましたから、毎日プレイしてふっかつのじゅもんがどんどん更新されて行くドラクエには完全に不向きでした。
今ならデジカメどころか、携帯電話で1枚撮っちゃえば終わりな話です。もっとも今やセーブデータはクラウドの時代で、いつでもどこでもセーブできたりしますけどね。
十年一昔と言いますが、その3倍の30年となると一昔どころではなく隔世の感が出て来ます。だいたい当時21世紀というのは宇宙旅行ができる時代だけれどその前の1999年に地球は滅びるとまことしやかに言われていたのです。1968年の映画「2001年宇宙の旅」という映画のように、2001年、つまり21世紀になったら宇宙に行けるようになると子供心に真剣に思ってました。2001年って言うと今から10年以上前です。2013年になっても宇宙になんて行けやしない。ファミコン発売当時、2001年には自分が何してるんだろうと将来の自分の姿を思い描いていましたが、2013年になった今、しがないサラリーマンしながらこんなくだらない記事を書いてるゲームブロガーやってるのはさすがに想像してませんでしたよ。
ゲームブログは数あれど、30年前をまともに振り返ることができる年齢でゲームブロガーやってていいんかい?とちょっと思った2013年7月15日でした。来月、このブログを開設してからちょうど5周年を迎えます。
ポラでパス取って(撮って)いた人は知ってますね…
京都市南区に住んでいたんで、任天堂本社にも行きましたわ。
マジで『ショボい…』な印象でしたわ。当時はね。